歯のおもしろ歴史館

歯の歴史博物館

虫歯の原因は歯虫?

 

歯虫と間違えられた神経

・古代から18世紀後半まで、歯痛や虫歯の原因は歯の中で歯質を小虫が食うために起こると考えられていました。この想像物である歯虫の名が世に現れたのは紀元前20世紀前半の事といわれています。

・バビロニア人は歯痛が起きたときには、アヌ神に「歯虫祓」の呪文を三度唱え、その後、ヒヨスの実を焼いて駆虫しました。ヒヨスの実には麻痺作用があるので痛みを和らげるためいくらかは効果があったのでしょう。

・また、古代中国、古代日本でも歯を疾む原因が歯虫であると考えられていました。この歯虫について中国では隋時代の「諸病源候論」に「牙歯虫候」、「牙虫候」という病名で記載され、これがわが国に伝わり、「醫心房」(いしんぼう)に受け継がれました。この医書の第五巻に「諸病源候論」を引用して「虫長六、七分、皆、黒頭」と具体的に書かれています。虫歯の中で見つけられた歯虫は、おそらく歯の中の神経を見まちがえていたようです。

・1881年(明治14年)頃より、虫歯の原因が酸によるものであることが分かり、後にG・V・ブラックが歯垢が原因との研究発表を行い、虫歯予防のため歯ブラシが有効ということが再確認されました。

古代の人も歯みがきをしていた

・インダス文明時代の古代インドでは、端を噛み潰したニームの木の小枝で一日二回歯みがきを行っていました。ローマ時代には動物の骨や卵の殻を焼いた灰で歯をみがいていました。中国では959年頃の歯ブラシが見つかっておりかなり古い時代から歯ブラシが使われていたのがわかります。また、曹洞宗の道元禅師の「正法眼蔵」には、中国の宋に留学中に牛角製柄に馬毛を植えた歯ブラシが使われていたと記してあります。現代的な歯ブラシの製造も西洋より、東洋の方が早かったようであります。家庭用の歯ブラシが高価だったヨーロッパで現在のような歯ブラシが使われるようになったのは17世紀になってからで当時の歯ブラシは馬毛でできていました。

・「歯をみがく」という思想はインドから仏教と共に中国や韓国を経て552年に日本へ伝えられました。平安朝期に楊子でみがくことが民間に広まり、日本で使用された最初の歯みがき粉は塩でしたが、江戸になると歯みがき粉は庶民にも広く普及しました。

・製造、販売の記録としては、江戸中期に出された大卿良則の「道聴塗説」の下巻、第十五編「歯磨の角力」に書かれているのが最初と思われます。「そもそも、歯磨きの始まりは、寛永ニ年丁字屋喜左衛門、朝鮮人の伝を受けてこれを製しけるより近来に至りて、世上に種類多し。さすれば喜左衛門が家を元祖江戸一番問屋と称す。昔は、大明香薬と称し、歯を白くする、口内あしき臭いを去ると記したる一袋おこないけるが、三、四十年以来、世上奢侈(しゃし)に流れ、さまざまの新奇を競ひけるなり云々」とあります。これ以後、歯磨剤はますます普及しました。商品として売られている歯磨剤の材料については、房州砂、滑石が使われていました。


古代インドでは歯を磨くと同時に銀製の舌掻で舌のそうじをしていました

昔の日本人が使っていたと思われる房楊枝

歯科医のはじまり

・古代バビロニア(紀元前2000年頃)では、歯痛を伴う疾患は加持祈祷で治す方法が盛んに行われました。14世紀頃のヨーロッパでは遊歴歯科医が町々を廻って歯みがき粉を売り歩くかたわら抜歯を行っていました。抜歯を専門にして町を廻る者は「歯抜屋」と呼ばれ、イタリアでは理髪師が抜歯、口腔内清掃など行っていました。しかし、実際はいいかげんな処置、あるいは訳のわからぬ歯磨剤の販売をしていたか想像に難しくはありません。なぜならば、立派に職業として成立していた理髪外科医でさえ歯科医から次のような非難をされていました。「床屋で硝酸を使って歯を白くすることの危険性を知ってほしい。このようなことを続けていると少しの詰め物でですむ歯でさえも全て入れ歯の助けを借りなくてはならなくなるだろう。」といわれていました。

歯科医がアシスタントと協力して歯を抜く様子

ギリシアの odontagra と呼ばれる抜歯鉗子

日本の歯科の歴史

・701年の大宝律令で医療制度のなかに耳目口歯科として歯科が確立されました。文献上としては、永観2年(984年)に丹波康頼が撰した「醫心方」(いしんぼう)に記録が残っています。これは、中国隋時代の巣元方(そうげんぽう)の「諸病源候論」を中心に、隋、唐時代の医学二百余冊、医師百余家の論を加えて完成した日本最古の医書で、現在、国宝として保存されています。この本の第五巻に、口歯の諸病、口腔衛生法について書かれています。治齲歯痛方(むしかめはのいたきをちするほう)の項目に「朝夕歯を磨けば齲(ク)にならない」また「食事をしたときは数回うがいをすれば齲にならない」と書いてあります。つまり、歯を磨くことは、審美的な目的ばかりではなく、齲蝕予防手段として書かれたことがわかります。

・歯科は、鎌倉期ー南北朝期ー室町時代初期には、口歯咽喉科となり、室町時代末期ー安土桃山時代に口歯科として独立しました。口歯科を担当する医師は一般医師の修行を終えた後に口中科を専門としたので口中医と称しました。室町末期から江戸時代にかけて、入れ歯のみを作る口中入歯師と医学の専門教育を受け抜歯や口中の治療を行う口中医がいました。口中入歯師は江戸中期頃には一般民衆の治療を行うようになっていました。


1800年頃の日本の歯科医は、患者と正座で向かい合って抜歯しました

江戸時代の主婦は、 歯ブラシの平らな方で舌もみがいていました

日本の入れ歯はすぐれもの

・日本最古の入れ歯は、尼僧沸姫(1538年没)の木床一木造りです。日本の当時の入れ歯で特筆すべきことは、西洋の見かけを回復する目的の入れ歯と異なり、顎によく吸い付いて噛めることです。この木床義歯制作のルーツは、仏師の手慰みから始まったといわれています。

・安土桃山時代頃より、あるいはその後、仏像彫刻の注文が少なくなり、仏師は逆に義歯をつくることで生活の糧にしたのではないかとされています。さらに、義歯を作ることを専門とする集団ができ、彼らを口中入歯師と称するようになりました。また、彼らの中には義歯を作るかたわら抜歯や口中の治療も行う者がでできました。これらのものを歯医者と称しました。

・口中入歯師は医学的専門教育を受けておらず、義歯製作専門技術を中心とし、その養成は組織的な統率下で老朽なものについて、その技術を習得し、師弟というより親分子分の関係にありました。したがって、彼らの技術は全く修行のみによる熟練の結果と多年にわたる経験によって得たものになります。そして、それらの組織は香具師に属していました。

・彼らが台頭し始めたのは室町末期から江戸初期で、江戸中期頃には広く全国に散って営業し、民衆に親しまれた口中治療者になりました。

日本最古の入れ歯 つげを彫って作った木製の入れ歯

当時の上下の入れ歯の代金は、独身者が1年暮らせる額に相当します

実用的ではなかった西洋の入れ歯

・19世紀以前の西洋の入れ歯は、骨や象牙からできていてあまり実用的ではありませんでした。噛めないだけでなく長く使っているうちに耐えられない悪臭がしてきました。これらの入れ歯を入れた貴婦人達は、晩餐会の日は予め自宅で入れ歯をはずして食事を済ませてから出かけていました。このようなことからも、あまり実用的ではなかったことがわかります。

・西洋歯科医学では、総義歯維持法の理論が発表され、実用化されたのは1800年以後にガルデットによって偶然発明されました。彼は、カバの牙を彫刻した上顎総義歯をいままで使用していたバネによる下顎の支えなしに装着してみました。これは患者が総義歯に慣れるまでの処置として行いました。数ヶ月後、患者を再び診察すると、その義歯は上顎に固着して、噛むことも話すこともさしつさえありませんでした。彼は義歯が見事に粘膜に吸着した原理を環境圧、吸引作用にあると思い、以後、多くの症例に適用しました。

・また、もう一つの説としてワインバーガー(歯科医史の大家)よると、アメリカで入れ歯を最初につくったのは、ガルデッドではなくグリーンウッドであるという説を出しています彼は、1789年からジョージワシントン(アメリカ大統領)の入れ歯をつくっています。そのときの義歯は、床が象牙、人口歯は自分の抜去歯牙であったとされています。


ジョージ・ワシントンの 金製の入れ歯 金の床と 象牙の歯でできています

紀元前4,5世紀の 古代フェニキア人の歯 人の歯4本と象牙性の2本の歯が金の線で結び付けられています

参考文献
長谷川正康:歯科の歴史おもしろ読本
Ring,M.E.:DENTISTRY AN ILLUSTRATED HISTORY



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